ノルウェー生まれのアメリカ人、醸造技師ウィリアム・コープランドが横浜山手天沼の山腹に、スプリング・ヴァレー・ブルワリーを建設。
岩倉具視一行のイギリス視察の折、ビール工場を見学。帰国後、日本の数カ所に官営の醸造所を計画。
「渋谷ビール」(渋谷庄三郎)が大阪に誕生。明治7年「三ッ鱗ビール」(野口正章)が甲府に誕生するが、どちらも明治15年頃には廃業したようである。
ビール醸造開業広告 山梨県社会教育施設情報化・活性化推進委員会/山梨県立図書館 「甲州文庫」
「まぼろしのビールを追って その1」最古の市販ビールは甲府生まれ(やまかいの四季 NO 70 1994,1,26 甲府西高校理科教室発行)
8月、ドイツ留学から帰国したビール醸造技師の中川清兵衛を主任技師に迎え、ビール工場の建設に着手。
9月23日、開拓使麦酒醸造所が開業。札幌冷製麦酒が誕生
9月 開拓使麦酒醸造所「札幌ビール」発売。東京に出荷
スプリング・バレー・ブルワリー、閉鎖
J.ドッズ、T.B.グラバーなどが発起人となり、スプリング・ヴァレー・ブルワリーの工場を再建し、「ジャパン・ブルワリー社」設立。
札幌麦酒醸造場を大倉組商会に払い下げる。
大倉組商会は大倉喜八郎が明治6年10月に設立。後の大倉商事、大成建設等の旧大倉財閥の元になる。札幌の大倉山ジャンプ競技場は、二代目の大倉喜七郎により建設され寄付されその名が付いている。 大成建設 125年のあゆみを参照
有限責任「日本麦酒醸造会社」が設立し、東京・恵比寿(この「恵比寿」という地名は、実はヱビスビールからつけられた―明治34年、工場の貨物駅が「恵比寿停車場(現在のJR山手線)」と名づけられ、後に周辺の地名も「恵比寿」となった)に工場を建設。
12月 渋沢栄一らが、 大倉組の工場を買収し、札幌麦酒会社を設立。
この年のビール販売量は一挙に前年の約三倍、17508石(17508×180= 3151kl)となる。
ジャパン・ブルワリー社、ドイツ風ラガービールを「キリンビール」ブランドで発売。販売は明治屋。
有限責任「大阪麦酒会社」設立(社長 鳥井駒吉)
12月、日本麦酒の目黒工場完成
鳥井駒吉について
明治時代の実業家。堺の酒造業・和泉屋に生まれ、若くして家業を継ぎます。日本で初めて、瓶づめの酒を作るなど商才に富み、次々と新しいアイデアで数々の事業を興します。明治20年に大阪麦酒株式会社(現在のアサヒビール)を創設。また、日本で初めての私鉄である阪堺鉄道株式会社(現在の南海電鉄)の創設にも尽力しました。
嘉永3年(1853)生まれで家は代々和泉屋という米屋でした。2男の駒吉は分家して酒造業を起し「春駒」という銘酒を売り出しました。明治19年精米会社、20年に共同醸造所を完成させ堺酒造業界に地位を築きました。 その後、吹田にビール工場を建設しこれが現在の朝日ビールの創始の地となりました。
阪堺鉄道株式会社も創立し後の南海鉄道の基礎を作り社長にもなりました。堺県の県議、堺市の市議、大阪府議もつとめ“堺の商傑”という異名を生みました
3月、日本麦酒、「ヱビスビール」を発売。
大阪麦酒会社、「アサヒビール」発売
大阪麦酒会社、大阪麦酒株式会社に改組
ビール1本=14銭(大壜) もりそば=1銭2厘 天丼=3銭 白米10Kg=67銭 年間0.16本(大壜)
大阪麦酒、本格的なビヤホール「アサヒ軒」の第1号店開業。ビアホール今昔(アサヒビール)より引用
明治30年の7月20日、「氷室生ビール」と洋食をメニューにした本格的なビヤホール「アサヒ軒」の第一号店が誕生しました。
日本麦酒が新橋にビヤホールを開業。 日本初のビヤホールは1899年、東京都京橋区に誕生した、「恵比寿ビヤホール」。当時ヱビスはジョッキ一杯(約500cc) 10銭
サッポロビールによれば、以上のようであるが、明治三十年の「アサヒ軒」が先か?
軍備増強のため、ビールに酒税が課せられ、資金力の弱い小醸造所はその負担に耐えられず次々と姿を消す。
日本鉄道が日本麦酒の意向を受け貨物輸送の取扱いを開始。停車場名はビールのブランド名「恵比寿」をそのまま採用。これが恵比寿駅の起源である。
3月 、札幌麦酒、大阪麦酒、日本麦酒(サッポロ、アサヒ、ヱビス)の三社が合併し大日本麦酒が誕生。72%の生産高の企業になる。第2位のキリンは20%。
2月、大日本麦酒が東京麦酒新株式会社(旧桜田ビール)を買収。
麒麟麦酒株式会社がゼ・ジャパン・ブルワリー社の事業を引き継いで発足。岩崎家が大株主。販売は引き続き明治屋。
帝国鉱泉株式会社設立「三ツ矢シャンペンサイダー」発売。三ツ矢サイダーを参照。
6月 大日本麦酒、「シトロン」を発売。
1910(明治43年) ビール1本=22銭(大壜) もりそば=3銭3厘 牛乳=3銭9厘 総合雑誌=20銭 年間0.9本(大壜)
麒麟麦酒、仙台の東洋醸造(フジビールを製造・販売)を合併。また横浜山手の本社工場が壊滅。
麒麟麦酒、キリンレモン発売。
ビール1本=34銭(大壜) もりそば=10銭 カレーライス=10銭 天丼=40銭 年間3.6本(大壜)
7月、大日本麦酒、日本麦酒鉱泉株式会社(東武鉄道の創始者である根津嘉一郎が創設。埼玉)を合併
8月、大日本麦酒と麒麟麦酒株式会社が麦酒共同販売株式会社を設立
ビールの価格統制始まる。価格指定、一本45銭
生産制限が行われ、家庭用ビールの配給が始まる。
生産・卸・小売りの3段階で、都市、地方別に公定価格が設定される。
ビール商標が廃止され「麦酒」に統一。 (同時にビール会社の統合・合併やびんの共用化などがおこなわれる。このビールびんの共用化により容量が統一化。)
11月 大日本麦酒、桜麦酒株式会社(九州)を合併。
全国単一の公定価格となる。
9月、「過度経済力集中排除法」に基づき、大日本麦酒は二分割され、日本麦酒と朝日麦酒となる。
1947年12月の「過度経済力集中排除法」では三百二十五社が指定されたが、実際に分割されたのは日本製鉄、王子製紙など十一社にとどまった。日本製鉄が八幡と富士に、王子製紙が苫小牧・十条・本州製紙に、大日本麦酒は日本麦酒と朝日麦酒に分割されたが、銀行は対象に入らなかった。旧財閥系企業は、銀行と商社を軸に、株式相互持合の企業集団へと再結合していく。
日本麦酒は、「サッポロビール」と「ヱビスビール」の商標を継承したが、新たに「ニッポンビール」の商標でスタート。
朝日麦酒は「アサヒビール」と「ユニオンビール」の商標を継承。
サッポロは北海道・東日本地区、ヱビスは東京、アサヒは西日本、ユニオンは名古屋と、 各ブランドは強い地域があった。この分割の結果、朝日麦酒は大阪を中心とする西日本に、日本麦酒は東京を中心とする東日本にマーケットが二分されたことになる。
酒類配給公団が廃止され、酒の自由販売が再開。
ビアホールも各地で復活、東京都内では500ml入りジョッキ1杯が130円。
4月、日本麦酒、「リボンジュース」発売(後に「リボンオレンジ」)と改称
原料統制が解除
キリンビールがビール業界のトップシェアを初めて獲得。キリンジュース発売。
4月 日本麦酒、北海道で「サッポロビール」復活発売
1955(昭和30年) ビール1本=125円(大壜) もりそば=25〜30円 天丼=150円 総合雑誌=120円 年間7.1本(大壜)
2月 日本麦酒、サッポロビール商標を全国で復活
5月 「沖縄ビール株式会社」会社設立、 8月に名護町(現名護市)に工場建設開始
宝酒造「タカラビール」を発売。
5月 オリオンビール製品発売開始。 6月に「沖縄ビール株式会社」より「オリオンビール株式会社」に社名変更 。
統制が撤廃され、戦前の公定価格は基準価格制度へと移行。
ビール1本=125円(大壜) もりそば=35円 とんかつ=180円 映画館入場料=200円 年間15.5本(大壜)
寿屋がサントリービールで参入。社名も「寿屋」から「サントリー株式会社」へ変更。
日本麦酒株式会社は、1月、社名をサッポロビール株式会社に変更。
基準価格が廃止され、自由価格に。(昭和14年の価格統制実施以来実に25年ぶりに自由価格となる)
宝酒造、 ビール事業より撤収 。
サッポロビール、宝酒造(株)から北関東工場(現在の群馬工場)を買収
12月10日、サッポロビール、「特製ヱビスビール」として、復活発売。