僕たちが住んでいたいわゆる『野津アパート』は四畳半から六畳間台所付、風呂無し、
共同玄関、共同トイレで家賃一万数千円。その当時の学生の平均的なアパートであった。
『いっちょやるか』と、大家さんはよく二階に上がってきた。麻雀の誘いである。そのせいばかりでは
無いのであるが、店子に大量の留年者や退学者を出し、その後おばさんに禁止されたようである。
正月に帰省しない学生を呼んでご馳走してくれたが、小豆のお雑煮には参った。砂糖がたっぷり入った
いわゆる『ぜんざい』である。おじさんの郷里(鳥取だったかな?)ではこれが欠かせないらしい。
一杯を持て余している僕たちを後目に、おじさんは高級ウィスキーを飲みながら何杯もおかわりを
していた。
現在、ちょうど建物の半分に切った形に改築されている。一階で大家さんが文房具店をしていた
のだが、廃業しているようである。同じ建物文房具店のとなりにあった喫茶店『古井戸』も取り
壊されている。その場所に新らしく家を建てたようだ。大家さんの名前の表札がかかっていた。
当時のぼくの部屋は階段を上がってすぐ左手にあった。この写真で言えば自動販売機の真上に
窓があり、ぼくは、窓越しに古い木造の市営住宅とその向こうの小さな公園を眺めていたはずである。
三つ目がこの建物の北側の写真だが、shogo氏の部屋はその写真の右から2番目窓のあたりだった
と思う。
shogo氏の記憶。 ゲストブックNo 308 shogo 99/07/14 05:12 から引用
たしかに僕が住んでいたのはあの写真の右から2番目の窓の部屋です。 でも、そこは以前は確か平尾くんが住んでいた部屋で、 彼が留学かなんかの事情で引っ越したあと僕があとを譲り受けたのだと思います。 で、その前は僕は南側の6畳の部屋に住んでいました。 記憶ではそこに(僕が出たあとに)rainさんが引っ越して来たのではなかったでしょうか? 違ったかな。 shogo
確かにそう言われればそのような気がする。ぼくが引っ越してきたのは二年生になってからの ことで、その頃ぼくは卓球部に忙しく、アパートの面々とはあまりつき合いがなかった。その後、 僕たちが四年目になったとき森岡くんがぼくのその南側の部屋に入って、東側の部屋に入ったの だったかな?
道路を挟んで木造の古い住宅があったはずなのだが、もう取り壊されていた。そのぶん若草公園
は拡張されていた。築山の位置もちょっと変わったような気がするし、大家さんのばか犬が水を飲んだ後
自分で蛇口を閉めたという水道もなくなっている。北側の部分も住宅が建っていたはずなのだが、
取り壊され直接道路に面している。ちょっとおしゃれな水路公園になっていた。
お米やさんの口岩商店。店はだいぶ前に改装されている。あの当時から僕たちにとっては
コンビニエンスなお店だった。50円しかお金がなくて、たまごを2個だけ買ってその日を過ごした
記憶がある。お金は無かったが、たいした借金もなく気楽な毎日であった。
数ヶ月にいっぺん、誰かがお金が入ったりすると行ったことがあるような。ぼく自身はその右隣に
あった食堂によく行った。
名前はなんと言ったかなあ、三十代後半の美人のおばさんがひとりで切り盛りしていて、チキンかつ定食
をよく食べたような気がするが、違うかなあ。
ミスタードーナッツが全国展開した頃であろうか、僕たちの街にも『ミスタードーナッツ』が出来た。
アメリカ人というのは何でこんな風な食べ物が好きなんだろうと思う。それでも徹夜麻雀あけ、
夜が白み始めたとき、みんなでよく行った。コーヒーをすすり、ドーナツをかじる。shogo氏の小説にドーナツ店のくだりがあると
ぼくはその店内をイメージしてしまう。
最初、板張りのパチンコ屋さんだったんだが、火事で焼けてこのビルになった。北二十四条界隈では 健全経営の店らしく、不況で裏の(鳥雅の前)ビルが無くなったとき、その土地を買い取って駐車場に している。
この写真の西側は、昔、路面電車の駐車場だったのであるが、それが廃止されたのをきっかけに
更地になっていたが、十年くらい前に『サンプラザ』という公営のホテル兼多目的ホールになっている。
ときどき、その中にあるプールに行くときがある。
ぼくが焼鳥屋になったきっかけの店。shogo氏も短期間ではあるがアルバイトしていた。そのあたりの
ことは、
『佐藤正午の思いで』
にちょっと書いておいた。『リボルバー』の中にも登場する。
今は人が変わってしまっている。
その当時のマスターは、僕たち夫婦の仲人でもあるのだが、現在『すすきの』でやはり
焼き鳥店を経営している。
ラーメンに色んなトッピングをした、たくさんの種類のラーメンが売り物だった。牛乳ラーメンとかあったな。ぼくはそんなものは食べる気がおきなかったので 、いつも普通のラーメンを注文していた。その後、札幌ラーメンのブームにのり有名な店になった。 で、心持ち広く改装されたようだ。
店の前にトーテムポールを立てていたが無くなっているね。昼時の忙しい時間が過ぎると、店の前で 親父さんが木を削っていたのを憶えている。何でトーテムポールなんか自作する気になったんだろう。
二十年分古くなったようだがこのアパートは昔から変わっていない。後から聞いた話では公営の宿舎
であるらしい。その写真向こうの方にのマンションが建っている。北高の西側に建っているのだが、
これは数年前に完成した。